古い電車も使う東武鉄道が「譲渡」した列車は?調べてみる(随時更新)
こんにちは。くさせんべいです。
とりあえず長い前置きがあるので、興味ない方はかるーく 読み飛ばしてください。
鉄道車両というものは結構寿命が長く、自家用車は20年、30年も経つと骨董品となり始めるのに対し、鉄道車両は30年は当たり前のように使われる…というのはご存じの方も多いと思います。でも時代と共に車両のデザインもどんどん進化していくので、そうしたデザインが陳腐化した車両や古くなった列車は、稼げる黒字路線から撤退させ地方の赤字路線用に改造する…というのが鉄道会社の常套で、こと大手私鉄では「地方私鉄・地方第三セクター鉄道会社に譲渡」という手段をとるケースが多くなっています*1。
が、そうやって古い車両を他社送りにする多くの大手私鉄とは対照的に、「古い車両を頑なに(?)使い続け、他社に譲渡することがほとんどない」鉄道会社があります。まあ、東武鉄道のことです。
主撮影 東武顔の8111F
主撮影
例えば東武を語るうえで欠かせない名車中の名車に「東武8000系」というものがあります(上写真)。この電車は、現在走らせているものの多くは'70年台、'80年台に造られたものなのですが、8000系そのものは'60年台、1963年から造られています。すなわち、8000系の基礎設計、ルーツは半世紀以上前まで遡るのです(流石に現存車で50年超えはほとんどないですが)。
その他にも(大手私鉄の旅客列車としては)前時代な的吊り掛け駆動の電車を車体だけ載せ替えてあろうことか21世紀初期まで使ったり、最近だと20000系を日光・宇都宮線用に改造してこれからも使い倒す気満々だったりと、何かと東武鉄道は古い車両を使い続けることに定評があります。当然、「時代遅れで保守的」と認識されたり、迷列車界隈では「古い車両を末永く使いましょう計画」とネタにされたりも。
新型車両の導入は現代に至るまで絶え間なく行われているので、「古い電車しかない」ということは決してない(※ここ大事)のですが、なにせ置き換えなければならない列車が多すぎるうえに自社の地方路線も多く抱えているので、「黒字通勤路線に新車を入れる→置き換えた列車を地方路線に持っていってさらに古い車両を廃車にする」というサイクルが自社線内で完結してしまっており、ゆえに地方私鉄に譲渡することが非常に少なくなっています。
となると「じゃあそんな東武鉄道が地方譲渡した例は何か無いの?」と気になってしまうのがファンというもの。例は少ないものの、東武鉄道にも地方譲渡例はあります。ということで今回は、その数少ない例を調べてみました。
<注意>
- 調査不足の可能性が十分考えられます。判明し次第随時更新します。
- 表記のないソース(情報源)はWikipediaなどからのものです。また、事情によりソースが貼れないケースがあります。
- 分かる限り現存しない列車も載せます。時代は問いません。
- ソースがソースなだけに、情報が間違っている可能性があります。気になる方は各自で信頼あるサイト・書籍をご確認ください。
編成単位・現存車両
東武6050系→野岩鉄道6050系・会津鉄道6050系
主撮影
かつての快速用6000系を更新したグループと完全新造車が存在する東武6050系*2。野岩鉄道が開業したときと会津鉄道が会津田島まで電化されたときにそれぞれ6050系が導入されましたが、そのとき「譲渡」という形を採ったので、ここでも「譲渡車」として扱います。
ただし実際は「相互直通運転をするにあたり車両使用料をやりとりするのは不都合だから同系列車両を用意して保有させ、使用料の打ち消しを図った」というだけのものであり、現在も平然と東武線内を走っているので、これを「譲渡車」として扱うべきかはかなり怪しいところではあります。そもそもこの車両は野岩会津両社に保有させるために造ったので、東武の車籍上では1年で廃車ということになっています。
ちなみに、内装は東武保有の6050系と全く同じですが、譲渡車かどうかを見分けるのは簡単で、車両中央にある車番が"6162"のような4桁ではなく"61102"のように5桁になっています。また、野岩鉄道車は100番台で3本のみ、会津鉄道車は200番台で1本のみなので、見れたら結構ラッキーだったりします。
ちなみに、現存かつ編成単位で譲渡された旅客列車としては唯一です。この辺りに東武の地方譲渡の少なさが伺い知れる。
※現在でも南栗橋ー新栃木の一部各駅停車、南栗橋ー東武日光の急行/区間急行、新栃木以北の全普通列車、鬼怒川線にて活躍中。また、かつては快速列車として浅草まで乗り入れていました。宇都宮線運用があったかは不明。
野岩鉄道譲渡車
61101F(1985年製造、同年譲渡)
61102F(1986年製造、同年譲渡)
61103F(1988年製造、同年譲渡)
会津鉄道譲渡車
61201F(1990年製造、同年譲渡)
いずれも東武鉄道線・会津鬼怒川線(野岩鉄道)・会津鉄道線(会津鉄道・会津田島以南のみ)で活躍中
東武ED5080形→三岐鉄道ED5081形
現在では貨物輸送を全く行っていない東武鉄道ですが、2003年と大手私鉄としては結構近年まで貨物輸送を行っていました。そして残念なことに、私がほとんど全く語れないジャンルでもあります。
Wikipediaからの引用で、
"ED5080形は1970年1月、成田空港建設用の砕石を輸送するために、新東京国際空港公団(現・成田国際空港株式会社)所有の私有機関車として東芝で3両(ED5081 - ED5083)が製造された。"
"1978年11月に空港完成に伴い、3両全てが東武鉄道に編入された。2003年の貨物運用廃止までED5060形とともに使用された。"
とのことです。
2003年に貨物輸送を終了するとともに、5081形として三岐鉄道へとやってきたようで、現在はセメントを中心とした貨物輸送(富田ー東藤原)で活躍してるようです。
ちなみに三岐鉄道というのは名古屋の西、三重県に存在する鉄道会社で、貨物が走ってない方の北勢線は日本でも有数の"ナローゲージ"(幅が狭い線路)を採用してることで有名だったりします。
↑Wikipediaには、現在東上線の地上車及び半蔵門線直通の予備車として活躍する30000系を引っ張ってる写真がありました。甲種輸送としての牽引のようです。
東武での活躍…佐野線など
ED5081→ED5081形5081(1970年製造、1987年東武に譲渡、2003年三岐鉄道に譲渡)
ED5082→ED5081形5082(同上)
東武ED5060形→三岐鉄道ED45形
Wikipediaより、
"本形式は、1960年 - 1966年に東芝で13両(ED5061 - ED5073)が製造された。これにより、当時在籍していた蒸気機関車は全て廃車になった。"
"主に伊勢崎線・佐野線・小泉線・桐生線・日光線・会沢線・大叶線等で使用されていた"
とのことです。世代的には1720系DRC、8000系初期車と同世代となるようです。そして、晩年まで残っていた蒸気機関車を置き換えた立役者でもあるようです。
三岐鉄道用への改造の際、6080型と違ってもとの車番に準じた番号を付けるのではなく、ED45形のグループとして編入されたようです。
現在では6080形とともに三岐線で活躍しているようです。
東武での活躍…上記
ED5070→三岐鉄道ED45系459(製造年未調査、1992年三岐鉄道に売却、2000年より運用開始)
三岐線で貨物牽引機関車として活躍中。
ED5069も譲渡されましたが、運用されず部品取り車として廃車になったそうです。
部品単位での譲渡(現役)
東武2000系→伊予鉄道610系・700系(一部)
日比谷線が開業するとともに東武側から乗り入れるために1961年から造られたのがこの東武2000系で、つい先日撤退したのが記憶に新しい20000系の前身車両です。東武鉄道の通勤電車初の新性能電車で、全車電動車、1993年に完全廃車されるまで全列車が非冷房でした。
一応この電車も運が良ければ東武線内で数年くらい前まで使われたのでしょうが、残念なことに全車電動車前提の設計だったこと、車体の構造から冷房化が出来なかったことなどが災いし、自社線内転属も地方譲渡も無いまま全列車が廃車となってしまいました。え?2080系?
↑伊予鉄道610系(Wikipediaより)。車体は20000系に準ずる(らしい)。
そんな2000系ですが、その台車FS340が狭軌1067mm用として注目されたのか、伊予鉄道の610系、700系の一部編成の台車として活躍しています。伊予鉄700系は京王(軌間1370mm)の電車なので、狭軌1067mmの伊予鉄にはそのまま転用できない事情があったようです。
先述の通り2000系は現存車が存在していないので、これらの台車が確認する限りでの2000系の最後の活躍であると考えられます。
ちなみに伊予鉄道というのは愛媛県松山市を中心に路線を展開する鉄道会社で、路面電車である市内電車と郊外電車があります。伊予鉄610系700系は郊外電車です。
有名所だと市内電車の「坊っちゃん列車」と道後温泉でしょうか。乗りに行きたいなぁ…
対象部品…台車(住友金属工業製FS340)
対象車…
610系
全列車(611F・612F)
700系
710F(クハ760-モハ710-モハ720)
716F(モハ726のみ)
717F(モハ727のみ)
711F(モハ721・廃車済み)
713F(モハ723・廃車済み)
郊外電車(郡中線など)で活躍中。
※形式の付け方がイマイチわかっていないため、間違っている可能性があります。
参考資料↓
伊予鉄道700系電車 編成表 | レイルラボ(RailLab)
伊予鉄道610系電車 編成表 | レイルラボ(RailLab)
東武8000系→小湊鉄道200系204
主撮影
現在でも活躍中の東武8000系。現在では全盛期の1/3くらいまで数を減らしているのですが、その部品の一部…正確には通風機(ベンチレーター)が小湊鉄道のキハ200系204のベンチレーターとして使われているようです。
ソースを貼りたかったんですが、情報源であった小湊鉄道公式Twitterが中の人クビ炎上を起こして過去ツイートを道連れに消えてしまったので残念ながら貼れませんでした。
本来の四角のものでなく、三角のものである…という話だったかと思われます。残念ながら、8000系を上部から撮影した写真はありませんでした。
対象部品…通風機/ベンチレーター(どの編成のものかは不明)
対象車 …キハ200系204
東武3000系→上信電鉄デハ200系204・205
当時、8000系を皮切りに3000系や5000系などにも広がり、一躍東武の印象をつくった「東武顔」(冒頭の8111Fのあの形状)。そんな東武顔の列車のうち、東武3000系の廃車に伴って生じた部品を使って改造が行われたのがこの200系のデハ204・デハ205。もともと200系として存在していたのが両運転台車に改造されているようです。東武3000系の闇は後々書くとして、レトロにもほどがある走行機器…の上に乗っかってる車体の部品は、比較的新しかったので流用ができたようです。
方向幕の位置から、その列車は8000系よりも6000系(6050系に更新され全滅済み)の顔に近いものとなっています。
対象部品…前面窓ガラスなど(運転台等が流用されているかは未調査)
対象車 …上信電鉄200系デハ204・205
編成単位での譲渡(廃車済み)
東武3000系/3050系→上毛電鉄300系/350系
東武鉄道の「古い電車をとことん使う」スタイルをこれまたとことん突き詰めちゃった感じのする列車で、これらのグループ電車自体は21世紀迎えるギリギリ(東武線内では1996年)まで使われましたが、この電車はなんと戦前型の電車の走行機器を流用しています。この電車の製造(というより車体更新)は'60年台中期~'70年台初期に行われ、当時の最新鋭車両8000系に準じた車体に載せ替えられることになりました。
3000系列には3000系、3050系、3070系が存在し、そのうち3000系が1986年より上毛電鉄の300系、3050系が1995年より350系として導入されました。ただある人の解説動画(後述)でも『「東武鉄道が」「老朽化のために」廃車した車両ということで、状態の悪さはお墨付き』と解説されているように、譲渡時点で最低でも40年以上…いや、3000系だと旧型車の32系が大体1928年くらいの時期に造られたようなので、50年以上使っている計算になりますね。ともかく、そんな「なんでこの時代にもなって(動態保存でもないのに)こんなの使ってるの?」と言いたくなっちゃうようなとことん古い電車を譲渡したわけで、譲渡後故障が頻発。最初に300系がデビューし、それの老朽化が激しくとてもとても使ってられないから350系を導入したという流れのようですが、老朽化が洒落にならない点ではどちらも全く変わらず結局早々に現行の700系(元京王3000系)に置き換えられています。設計が優秀だった8000系と違い、"電車"というもの自体の歴史が今よりまだまだ浅かった時代の車両である。ほんと何で上毛電鉄もコレ使おうと思ったし何で東武鉄道もコレ渡しちゃったのかとしか言いようがない…
主撮影 現行の700系電車
ちなみに上毛電鉄というのは群馬県にあるローカル私鉄で、中央前橋~西桐生を結んでいます。東武鉄道とは赤城駅で接続しており、浅草から赤城行の特急りょうもう号で乗り換え無しで行けてしまいます。また、JR前橋駅から少し歩くことで中央前橋駅に行くことができます。
東武線内での活躍
3000系…全線?→(車体更新)伊勢崎線・東上線など→野田線(東武では1992年までに廃車)
3050系…全線?→(車体更新)野田線および群馬地区ローカル線(1996年までに廃車)
譲渡車…Wikipedia参照↓
参考
腐っても豆腐の鉄道チャンネル様作の動画↓
総武鉄道モハ1000系→高松琴平電気鉄道/上田丸子電鉄
もはや東武の名前すら出てこなくなりました。総武鉄道というのはかつて東武野田線を所持していた鉄道会社で、東武と合併して現在の東武野田線/アーバンパークラインとなりました。
残念なことに戦前型については東武貨物以上に語ることができないので、説明はWikipediaにお任せしようと思います。
ちなみに、高松琴平電気鉄道はいわゆる"ことでん"、上田丸子電鉄は現在の上田交通です。
部品単位での譲渡(廃車済み)※未調査
現在未調査です。判明し次第記述します。
あとがき
ということで、東武鉄道の譲渡車を調べてみました。先述のとおりまだ調査中で、見逃し等も十分考えられるので、後々追記していく予定です。
東武鉄道は貨物輸送を完全に終了してしまった関係で電気機関車が要らない子となってしまっていたので、そちらの譲渡は思ったより結構ありました。一方で旅客列車も少しは譲渡がありますが、小湊鉄道への例を除けば譲渡対象がどれもワケアリっていうのが何というか…。
ひとまず、ここでいったん「公開」とさせていただきます。「こんな譲渡車/譲渡部品もあるよ!」というコメントが来るととてもありがたいのですが、果たして訪問者0人ブログにそんな情報が転がってくるのやら…
23区内・東武の廃駅に思いを馳せる
こんにちは、くさせんべいです。今まで「煎餅の旅と日常」というブログの中で東武の話をしていましたが、旅先の話と地元の話では内容が全く異なるではないか!ということで分離することにしました。ここではひたすら「東武」のことをつぶやいていきます。ちなみに何故東武かと言うと、超地元の鉄道会社だからです。
先日、ふと思い立って東武の駅について調べていました。資料は手元にある本とWikipediaだったのですが、このwikipediaを見ていたときにいくつか廃駅があることに気づきました。「隅田公園駅…ああ、浅草の隣にあった駅ね。…んん?この請地駅ってなんだ?南千住でも北千住でもなく千住駅?そんな駅あったか?」不思議に思い、ちょいとこれらの駅名を検索エンジンに放り込んで調べてみました。
<注意>
・google mapを埋め込んでいますが、場所は推定です。
・情報がネット頼りであるため、間違っている可能性があります。
隅田公園駅
設置場所…浅草~とうきょうスカイツリー間
設置年 …1931年
廃止年 …1958年
浅草駅を出発した電車はすぐ右カーブを曲がり、橋上の分岐器を超えて墨田川橋梁を渡るのですが、その橋梁を超えてからとうきょうスカイツリー駅に至るカーブまでの僅かな直線区間にその駅はあったようです。
浅草~とうきょうスカイツリーの区間だけでもかなり距離が近く、駅すぐ南の吾妻橋を迂回しなければいけないことを考慮しても余裕で歩ける距離なのですが、その駅間に隅田公園駅はあったようです。浅草駅からは0.5km、とうきょうスカイツリー駅からも0.6kmという近さ。
駅は戦前の1931年開業、工事が難航していたとうきょうスカイツリー(当時は業平橋駅)~浅草駅(当時は浅草雷門駅)間の墨田川橋梁が完成し晴れて浅草乗り入れとなったときに同時に開業した駅のようですが、やはり浅草雷門駅からも業平橋駅からも近かった影響で利用客が伸び悩んだようで、第二次世界大戦が始まると不要不急駅として1943年から3年間の休止となったようです。が、その休止中に空襲(1945年)で駅が焼失。これにより東武はすっかりやる気を無くしてしまったためか、その後10年以上に渡り休止申請が行われ、結局廃止となってしまったようです。
この区間は電車で乗っただけでなく何度も歩きましたが、確か目立つような駅跡は無かったと記憶しています。まあ駅が消えたのはもう75年も前ですし、駅跡が見当たらないのも仕方はないかなって思います。
現在この周辺には、当時からあった隅田公園の他に、アサヒグループの本社(聖火台の炎を模したオブジェがあるが、世間からは「う〇こビル」と呼ばれちゃってるあそこ)が近いので、もしこの駅が残っていたら通勤需要もあったのかな~と思いますが、実際はどうなっていたことやら。まあ現在は都営の本所吾妻橋駅がありますし、ぶっちゃけいらないかも。
このピンのすぐ北西に隅田公園があるので、多分このピンのすぐ西かと思われます。
余談ですが墨田川沿いには現在首都高の高架があります。
請地駅
設置場所…とうきょうスカイツリー~曳舟
設置年 …1931年
廃止年 …1949年
備考 …現・京成押上線(京成請地駅※廃駅)との乗り換え駅
北千住以南(現北千住~現とうきょうスカイツリー)が開業した約30年後に、隅田公園駅に続いて造られた駅のようです。
東向島~とうきょうスカイツリーの周りを歩いたり、東側に注目しつつ乗車したりすると、実は東武線のものすごく近くにもう1本線路があることがわかります。京成押上線です。この駅は1932年に”京成請地駅”が出来たことにより京成押上線との乗り換え駅として機能したようです。…これまた隅田公園駅と同じで両隣の駅に近く(とうきょうスカイツリー~曳舟は1.3km)、さらに京成⇔東武の乗り換えも押上駅+とうきょうスカイツリー(当時は業平橋駅駅)で行われることが多かったようで、利用客は伸び悩んでしまったとか。
京成請地駅が1943年に不要不急駅として休止、1947年に廃止されたのを受け東武の請地駅も戦直後の1946年に休止、1949年に廃止となったようです。情報にはありませんが、隅田公園駅が空襲で焼けたことを考えるとこちらも被害を受けていたとか、復旧資材捻出のために駅を解体したとか、そういう説も無きにしも非ずかもしれません。…いや、私の勝手な予想なんですがね。
ともかくもこの駅は戦後混乱期に消滅してしまった駅のようで、それゆえか情報もあまり出回っていないようです。さらにこの周辺は高架化・地下化(京成)されてしまったため、駅の跡というのはもう残っていないようです。
おそらくこの踏切&高架の辺りにあったと推測されます。廃線跡みたいにわかりやすいもの…例えば、東武鉄道or京成電鉄所有の土地の駐車場とかがあれば推測が容易だったのですが、場所が都内である上に半世紀以上前の廃止なのでストリートビューで見てもそれらしい遺構は見られませんでした。
中千住駅
設置場所…牛田~北千住
設置年 …1924年
廃止年 …1953年
備考 …1930年までは「千住駅」 1945年から休止
廃止以降、1987年に千住線(貨物)が廃線になるまで「中千住信号場」、
または「千住分岐点」として営業
新線切り替えと同時期に誕生した駅のようで、上2駅と同様に北千住~牛田1.1kmの間に存在していたようです。
これまた上2つの駅と同様両駅とも近い場所にあります。google mapには北千住南にある踏切(大踏切と呼ばれてるとか)の辺りに「中千住駅跡」のピンが立っています。この駅の開業から11年後に千住線なる貨物線が開業しており、当駅はその分岐駅であったとか。
休止したのが1945年の4月頃であったという情報がwikiに載っていました。1945年といえば戦争末期であり、ちょうど1ヶ月くらい前の3月には空襲もあった様子。被害を受けた、不要不急駅に指定された…という話は聞きませんが、時期的に戦争がきっかけで休止になった可能性は高そうです。戦争をきっかけに休止、廃止への流れをたどったであろうことは、その駅の廃止・休止についての情報が少ない点から見てもあり得ると思います。
ちなみにその後も続いた千住線についてはわかりやすい廃線跡が残っていますが、こちらの駅は複線+入換線の用地に埋もれてしまったのかぱっと見分からないです。しつこく遺構を探せばあるかもしれません。
虎橋通駅
設置年 …1928年
廃止年 …1958年
備考 …1943年に休止、1945年に空襲によりホーム焼失
かつての本線、現在は下町の雰囲気が感じられるローカル線の亀戸線にあった(とされる)駅のようです。曳舟からは0.6km、1928年の電化に合わせて開業した駅のようですが、この駅、関連する情報がほとんど見当たりません。廃駅を求めて歩いた人のブログでは、曳舟を出て1つ目の踏切にあったとされています。2つ目の方が正しいような…
不要不急駅、とは記録が無いものの、戦争真っ只中に休止となった駅で、さらに隅田公園駅が焼失した時と同じ日の空襲で燃やされてしまったようです。また、隅田公園駅が正式に廃止になったときと同じ日に正式廃止になってしまったようです。
亀戸線の駅間距離から考えるとこの駅があってもよかったような気はしますが、どの道曳舟も小村井も徒歩圏内ですから「別に困るわけじゃない」感じではありそうです。
十間橋通駅
設置年 …1928年
廃止年 …1958年
備考 …1945年に空襲により被災、2ヶ月後に休止。
これまた亀戸線。虎橋通駅と同じく電化の1928年に開業した駅のようですが、こちらは戦争体制に移っても休止には至らなかったようです。が、1945年に隅田公園駅・虎橋通駅ともども空襲に遭い(wikiには焼失ではなく被災と書かれている)、直後に休止。そして復活することは無くそのまま1958年に隅田公園駅・虎橋通駅と同じ日に正式に廃止されたようです。
虎橋通駅からは僅か0.3kmの近さのようで、この近さを考えると最早「路面電車」という言い方が正しいんじゃないかとすら思えます。
十間橋通は実際にある道路で、ストリートビューで確認する限り踏切のすぐ脇に十間橋通であるを示す看板があるようです、
天神駅
設置年 …1904年
廃止年 …1957年
備考 …1905年に休止、1908年廃止、1925年再開業
1945年に空襲で被災、1956年休止、1957年廃止。
こちらは亀戸線の上二つと違い、亀戸線区間が開通したと同時に唯一の中間駅として開業したようです*1。戦争に巻き込まれたのは上の2駅と同じですが、こちらはどうやら戦後もしばらくは営業していたようです。
それはいいのですが、データ上では「小村井駅から100m」となっているんですよね…。0.1km。「じゃあ小村井駅は天神駅の後継として出来たの?」といえばそうではなく、小村井駅は電化の1926年に開業しているうえに、「(小村井駅は)現在まで移転も休止も無く続く駅」とされています。デマや情報の間違いが無ければ、1926年~1956年の約30年間に渡り「目と鼻の先に別の駅が共存していた」ということになります。小村井ー十間通駅の0.4kmでも鉄道路線としては短い方なのに、まさかの100m。路面電車ではもっと短い63m*2がありますが、それはあくまで路面電車。現存していたら松浦鉄道*3の最短200mを抜く、鉄道線でぶっちぎりの最短駅間距離となっていたことかと思われます。
さすがに距離か年のどちらかはデマだと信じたいですねぇ…。
丁度この辺りに妙な空き地がありますので、その辺りの可能性。十間通駅から0.3kmある、と言いますがどう考えても天神~小村井駅と同じくらいの距離しかありません。
北十間駅
設置年 …1928年
廃止年 …1946年
備考 …1945年に空襲により被災、2ヶ月後に休止
1946年には旧亀戸水神駅と統合するかたちで廃止
亀戸線上3つの駅と違い、信頼ある情報源よりきっちりと存在が確認できた駅。他の大半の駅と同様に1928年の電化と同時に開業した駅で、これまた十間橋通駅と同様の運命をたどっています。少し違うのは推定0.4kmほど離れていたかつての亀戸水神駅と統合して廃止されたところで、いわば「2駅を廃止しその中間に新駅を造った」という感じです。しかしながら新駅は亀戸水神駅の後継とされました。
現駅からは200mほど、とされていますが、ストリートビューで確認する限りそれらしい遺構は現亀戸水神から北に200mあたりのところには見られず、もっと短い100mくらいのところにしか確認できませんでした。
(旧)亀戸水神駅
設置場所…(現)亀戸水神~亀戸
設置年 …1928年
廃止年 …1946年
備考 …十間通駅と統合して200mほど北の現在の位置へ移転
最後は、名前が現在も残っている以上「廃駅」とは言い難いようなところですが、旧亀戸水神駅です。現在では都内に構内踏切が残る数少ない駅の1つとして知られる駅の旧駅で、現在の駅の南におよそ200mほど離れていたそうです。開業は他駅同様電化の1928年。空襲被害、というのは記録にありませんが、おそらく廃止された時期的に影響はあったのかと推測されます。
下り側に側道がありますが、そこを埋めればホームと駅事務室と1人~2人くらい分の有人改札のスペースがとれそうな感じでした。一方上りホームは非常に狭そうでした。
後書き
ということで、Wikipedia、google map(+ストリートビュー)、あと後述のサイトをもとに23区内の東武の廃駅をピックアップしてみました。もともとは伊勢崎線メインで、隅田公園駅の他に請地駅があったから本格的に調べてみようってことに至ったわけですが、思った以上に亀戸線に廃駅が多くありびっくりしました。当時の亀戸線は路面電車のマネでもしていたんでしょうか?
いくつも調べてみましたが、いずれも戦争の前後に休止、廃止というものがほとんどで、いかに戦争がこの周辺を変えたかがそのわずかな記録から読み取れます。しかも下町の駅であるとはいえ場所が都内であるため、駅跡の周辺は手が加えられており、さらにバブルでの土地売買にも揉まれてしまったのか最早駅があったかどうかすら疑わしいほど土地が小さいor痕跡が全く見られない駅も数多くありました。
そうそう、この駅探しの亀戸線区間につきましては既に調査をなされた方のブログを参考にさせていただきました。誠に勝手ながらリンクを貼らせていただきます。
もしもこんな情勢じゃなければ即座にでも現地に赴くのですが、残念なことに今外出するわけにはいかなかったのでgoogle mapでの代用となりました。しばらくはこの駅たちに思いを馳せておくことにします。それで、疫病流行が落ち着き外出できるようになったら実地調査、記録をしに行くことにしましょう。
とりあえず、COVID-19は早く滅びろーーー\(# ゚Д゚)ノーーー!!!
…以上です。
参考資料:
Google map
『東武亀戸線・失われた中間駅を辿る(前編) : 赤い電車は白い線』https://khkar2.exblog.jp/16690165/
『東武亀戸線・失われた中間駅を辿る(後編) : 赤い電車は白い線』
https://khkar2.exblog.jp/16698949/
書籍『東武鉄道 各駅停車』著・杉﨑行恭 2015年初版 洋泉社
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