23区内・東武の廃駅に思いを馳せる
こんにちは、くさせんべいです。今まで「煎餅の旅と日常」というブログの中で東武の話をしていましたが、旅先の話と地元の話では内容が全く異なるではないか!ということで分離することにしました。ここではひたすら「東武」のことをつぶやいていきます。ちなみに何故東武かと言うと、超地元の鉄道会社だからです。
先日、ふと思い立って東武の駅について調べていました。資料は手元にある本とWikipediaだったのですが、このwikipediaを見ていたときにいくつか廃駅があることに気づきました。「隅田公園駅…ああ、浅草の隣にあった駅ね。…んん?この請地駅ってなんだ?南千住でも北千住でもなく千住駅?そんな駅あったか?」不思議に思い、ちょいとこれらの駅名を検索エンジンに放り込んで調べてみました。
<注意>
・google mapを埋め込んでいますが、場所は推定です。
・情報がネット頼りであるため、間違っている可能性があります。
隅田公園駅
設置場所…浅草~とうきょうスカイツリー間
設置年 …1931年
廃止年 …1958年
浅草駅を出発した電車はすぐ右カーブを曲がり、橋上の分岐器を超えて墨田川橋梁を渡るのですが、その橋梁を超えてからとうきょうスカイツリー駅に至るカーブまでの僅かな直線区間にその駅はあったようです。
浅草~とうきょうスカイツリーの区間だけでもかなり距離が近く、駅すぐ南の吾妻橋を迂回しなければいけないことを考慮しても余裕で歩ける距離なのですが、その駅間に隅田公園駅はあったようです。浅草駅からは0.5km、とうきょうスカイツリー駅からも0.6kmという近さ。
駅は戦前の1931年開業、工事が難航していたとうきょうスカイツリー(当時は業平橋駅)~浅草駅(当時は浅草雷門駅)間の墨田川橋梁が完成し晴れて浅草乗り入れとなったときに同時に開業した駅のようですが、やはり浅草雷門駅からも業平橋駅からも近かった影響で利用客が伸び悩んだようで、第二次世界大戦が始まると不要不急駅として1943年から3年間の休止となったようです。が、その休止中に空襲(1945年)で駅が焼失。これにより東武はすっかりやる気を無くしてしまったためか、その後10年以上に渡り休止申請が行われ、結局廃止となってしまったようです。
この区間は電車で乗っただけでなく何度も歩きましたが、確か目立つような駅跡は無かったと記憶しています。まあ駅が消えたのはもう75年も前ですし、駅跡が見当たらないのも仕方はないかなって思います。
現在この周辺には、当時からあった隅田公園の他に、アサヒグループの本社(聖火台の炎を模したオブジェがあるが、世間からは「う〇こビル」と呼ばれちゃってるあそこ)が近いので、もしこの駅が残っていたら通勤需要もあったのかな~と思いますが、実際はどうなっていたことやら。まあ現在は都営の本所吾妻橋駅がありますし、ぶっちゃけいらないかも。
このピンのすぐ北西に隅田公園があるので、多分このピンのすぐ西かと思われます。
余談ですが墨田川沿いには現在首都高の高架があります。
請地駅
設置場所…とうきょうスカイツリー~曳舟
設置年 …1931年
廃止年 …1949年
備考 …現・京成押上線(京成請地駅※廃駅)との乗り換え駅
北千住以南(現北千住~現とうきょうスカイツリー)が開業した約30年後に、隅田公園駅に続いて造られた駅のようです。
東向島~とうきょうスカイツリーの周りを歩いたり、東側に注目しつつ乗車したりすると、実は東武線のものすごく近くにもう1本線路があることがわかります。京成押上線です。この駅は1932年に”京成請地駅”が出来たことにより京成押上線との乗り換え駅として機能したようです。…これまた隅田公園駅と同じで両隣の駅に近く(とうきょうスカイツリー~曳舟は1.3km)、さらに京成⇔東武の乗り換えも押上駅+とうきょうスカイツリー(当時は業平橋駅駅)で行われることが多かったようで、利用客は伸び悩んでしまったとか。
京成請地駅が1943年に不要不急駅として休止、1947年に廃止されたのを受け東武の請地駅も戦直後の1946年に休止、1949年に廃止となったようです。情報にはありませんが、隅田公園駅が空襲で焼けたことを考えるとこちらも被害を受けていたとか、復旧資材捻出のために駅を解体したとか、そういう説も無きにしも非ずかもしれません。…いや、私の勝手な予想なんですがね。
ともかくもこの駅は戦後混乱期に消滅してしまった駅のようで、それゆえか情報もあまり出回っていないようです。さらにこの周辺は高架化・地下化(京成)されてしまったため、駅の跡というのはもう残っていないようです。
おそらくこの踏切&高架の辺りにあったと推測されます。廃線跡みたいにわかりやすいもの…例えば、東武鉄道or京成電鉄所有の土地の駐車場とかがあれば推測が容易だったのですが、場所が都内である上に半世紀以上前の廃止なのでストリートビューで見てもそれらしい遺構は見られませんでした。
中千住駅
設置場所…牛田~北千住
設置年 …1924年
廃止年 …1953年
備考 …1930年までは「千住駅」 1945年から休止
廃止以降、1987年に千住線(貨物)が廃線になるまで「中千住信号場」、
または「千住分岐点」として営業
新線切り替えと同時期に誕生した駅のようで、上2駅と同様に北千住~牛田1.1kmの間に存在していたようです。
これまた上2つの駅と同様両駅とも近い場所にあります。google mapには北千住南にある踏切(大踏切と呼ばれてるとか)の辺りに「中千住駅跡」のピンが立っています。この駅の開業から11年後に千住線なる貨物線が開業しており、当駅はその分岐駅であったとか。
休止したのが1945年の4月頃であったという情報がwikiに載っていました。1945年といえば戦争末期であり、ちょうど1ヶ月くらい前の3月には空襲もあった様子。被害を受けた、不要不急駅に指定された…という話は聞きませんが、時期的に戦争がきっかけで休止になった可能性は高そうです。戦争をきっかけに休止、廃止への流れをたどったであろうことは、その駅の廃止・休止についての情報が少ない点から見てもあり得ると思います。
ちなみにその後も続いた千住線についてはわかりやすい廃線跡が残っていますが、こちらの駅は複線+入換線の用地に埋もれてしまったのかぱっと見分からないです。しつこく遺構を探せばあるかもしれません。
虎橋通駅
設置年 …1928年
廃止年 …1958年
備考 …1943年に休止、1945年に空襲によりホーム焼失
かつての本線、現在は下町の雰囲気が感じられるローカル線の亀戸線にあった(とされる)駅のようです。曳舟からは0.6km、1928年の電化に合わせて開業した駅のようですが、この駅、関連する情報がほとんど見当たりません。廃駅を求めて歩いた人のブログでは、曳舟を出て1つ目の踏切にあったとされています。2つ目の方が正しいような…
不要不急駅、とは記録が無いものの、戦争真っ只中に休止となった駅で、さらに隅田公園駅が焼失した時と同じ日の空襲で燃やされてしまったようです。また、隅田公園駅が正式に廃止になったときと同じ日に正式廃止になってしまったようです。
亀戸線の駅間距離から考えるとこの駅があってもよかったような気はしますが、どの道曳舟も小村井も徒歩圏内ですから「別に困るわけじゃない」感じではありそうです。
十間橋通駅
設置年 …1928年
廃止年 …1958年
備考 …1945年に空襲により被災、2ヶ月後に休止。
これまた亀戸線。虎橋通駅と同じく電化の1928年に開業した駅のようですが、こちらは戦争体制に移っても休止には至らなかったようです。が、1945年に隅田公園駅・虎橋通駅ともども空襲に遭い(wikiには焼失ではなく被災と書かれている)、直後に休止。そして復活することは無くそのまま1958年に隅田公園駅・虎橋通駅と同じ日に正式に廃止されたようです。
虎橋通駅からは僅か0.3kmの近さのようで、この近さを考えると最早「路面電車」という言い方が正しいんじゃないかとすら思えます。
十間橋通は実際にある道路で、ストリートビューで確認する限り踏切のすぐ脇に十間橋通であるを示す看板があるようです、
天神駅
設置年 …1904年
廃止年 …1957年
備考 …1905年に休止、1908年廃止、1925年再開業
1945年に空襲で被災、1956年休止、1957年廃止。
こちらは亀戸線の上二つと違い、亀戸線区間が開通したと同時に唯一の中間駅として開業したようです*1。戦争に巻き込まれたのは上の2駅と同じですが、こちらはどうやら戦後もしばらくは営業していたようです。
それはいいのですが、データ上では「小村井駅から100m」となっているんですよね…。0.1km。「じゃあ小村井駅は天神駅の後継として出来たの?」といえばそうではなく、小村井駅は電化の1926年に開業しているうえに、「(小村井駅は)現在まで移転も休止も無く続く駅」とされています。デマや情報の間違いが無ければ、1926年~1956年の約30年間に渡り「目と鼻の先に別の駅が共存していた」ということになります。小村井ー十間通駅の0.4kmでも鉄道路線としては短い方なのに、まさかの100m。路面電車ではもっと短い63m*2がありますが、それはあくまで路面電車。現存していたら松浦鉄道*3の最短200mを抜く、鉄道線でぶっちぎりの最短駅間距離となっていたことかと思われます。
さすがに距離か年のどちらかはデマだと信じたいですねぇ…。
丁度この辺りに妙な空き地がありますので、その辺りの可能性。十間通駅から0.3kmある、と言いますがどう考えても天神~小村井駅と同じくらいの距離しかありません。
北十間駅
設置年 …1928年
廃止年 …1946年
備考 …1945年に空襲により被災、2ヶ月後に休止
1946年には旧亀戸水神駅と統合するかたちで廃止
亀戸線上3つの駅と違い、信頼ある情報源よりきっちりと存在が確認できた駅。他の大半の駅と同様に1928年の電化と同時に開業した駅で、これまた十間橋通駅と同様の運命をたどっています。少し違うのは推定0.4kmほど離れていたかつての亀戸水神駅と統合して廃止されたところで、いわば「2駅を廃止しその中間に新駅を造った」という感じです。しかしながら新駅は亀戸水神駅の後継とされました。
現駅からは200mほど、とされていますが、ストリートビューで確認する限りそれらしい遺構は現亀戸水神から北に200mあたりのところには見られず、もっと短い100mくらいのところにしか確認できませんでした。
(旧)亀戸水神駅
設置場所…(現)亀戸水神~亀戸
設置年 …1928年
廃止年 …1946年
備考 …十間通駅と統合して200mほど北の現在の位置へ移転
最後は、名前が現在も残っている以上「廃駅」とは言い難いようなところですが、旧亀戸水神駅です。現在では都内に構内踏切が残る数少ない駅の1つとして知られる駅の旧駅で、現在の駅の南におよそ200mほど離れていたそうです。開業は他駅同様電化の1928年。空襲被害、というのは記録にありませんが、おそらく廃止された時期的に影響はあったのかと推測されます。
下り側に側道がありますが、そこを埋めればホームと駅事務室と1人~2人くらい分の有人改札のスペースがとれそうな感じでした。一方上りホームは非常に狭そうでした。
後書き
ということで、Wikipedia、google map(+ストリートビュー)、あと後述のサイトをもとに23区内の東武の廃駅をピックアップしてみました。もともとは伊勢崎線メインで、隅田公園駅の他に請地駅があったから本格的に調べてみようってことに至ったわけですが、思った以上に亀戸線に廃駅が多くありびっくりしました。当時の亀戸線は路面電車のマネでもしていたんでしょうか?
いくつも調べてみましたが、いずれも戦争の前後に休止、廃止というものがほとんどで、いかに戦争がこの周辺を変えたかがそのわずかな記録から読み取れます。しかも下町の駅であるとはいえ場所が都内であるため、駅跡の周辺は手が加えられており、さらにバブルでの土地売買にも揉まれてしまったのか最早駅があったかどうかすら疑わしいほど土地が小さいor痕跡が全く見られない駅も数多くありました。
そうそう、この駅探しの亀戸線区間につきましては既に調査をなされた方のブログを参考にさせていただきました。誠に勝手ながらリンクを貼らせていただきます。
もしもこんな情勢じゃなければ即座にでも現地に赴くのですが、残念なことに今外出するわけにはいかなかったのでgoogle mapでの代用となりました。しばらくはこの駅たちに思いを馳せておくことにします。それで、疫病流行が落ち着き外出できるようになったら実地調査、記録をしに行くことにしましょう。
とりあえず、COVID-19は早く滅びろーーー\(# ゚Д゚)ノーーー!!!
…以上です。
参考資料:
Google map
『東武亀戸線・失われた中間駅を辿る(前編) : 赤い電車は白い線』https://khkar2.exblog.jp/16690165/
『東武亀戸線・失われた中間駅を辿る(後編) : 赤い電車は白い線』
https://khkar2.exblog.jp/16698949/
書籍『東武鉄道 各駅停車』著・杉﨑行恭 2015年初版 洋泉社
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