東武伊勢崎線に北千住~新橋の地下新線を造る計画があったらしい…というお話。

浅草の繁華街の脇にそびえる駅、「浅草駅」。
駅ビルのなかに入っているその駅は言わずと知れた東武鉄道のターミナルで、東武特急が発着する東武鉄道の拠点駅の一つとなっています。
ですが、拠点駅であると同時に、この駅は「残念なターミナル」という不名誉な名前も貰ってしまっています。というのも、この駅は都心側のターミナルでありながら最大で8両までしか入ることができず、しかも大半は6両までしか対応していないという、昨今の大量輸送時代とは思えないほど輸送力が乏しいターミナルとなっています。
こうなった原因は
- 立地上墨田川を渡ってすぐのところに駅を造るほかなく、土地が少なかった
- 延伸当時、山手線ではなく浅草が東京の中心街であった
- 延伸当時は10両編成などとても考えられぬ時代で、2両4両が当たり前だった
- 両国、越中島など都心の他のターミナルを確保することができなかった
- 上野・浅草は既に栄えており、地下鉄計画が真っ先に実行されることになったため上野への延伸申請が却下された。またもう路線を造るための用地がなかった。
などといった度重なる不運により現代こうした駅になってしまったようです。もちろんそんな状況であっても大量輸送時代は訪れるもので、この対策として
- 日比谷線への直通→山手線アクセスの確保
- 新車投入、旧性能車の車体更新→輸送力強化
- 業平橋駅を利用した折り返し能力強化(のちに不要となり現在この機能は消滅)
- 北千住~北越谷の複々線化工事→列車本数増強、遠近分離、定時運行率の向上
- 北千住の立体化→ターミナル機能の強化、安全性の向上
- 半蔵門線、東急田園都市線との直通運転→輸送力の確保
といったさまざまな対策を行い、迫る大量輸送時代へと備えました(というよりその対策中に大量輸送時代が訪れ、大量の乗客にもみくちゃにされながら必死で輸送改善を行ってきた、という方が正しいかと思われますが…)。
ということでここからが本題。不便なターミナルを持ってしまった東武鉄道、この山手線アクセスの改善の一貫として日比谷線へと直通を行い、結果として急速に発展していった経緯を持ちます。ですがが、日比谷線開業前の頃に実はもう一つ、新たな都心のターミナルへと乗り入れる構想があったそうです。
このことについての詳しい話は、東武鉄道公式の「東武鉄道百年史」に載っているそうですが、残念ながらこれがまた万を超えるお値段であって一般に流通するようなものでなく、それゆえ手元に存在しないため、「東武伊勢崎線、日光線 古地図さんぽ」という本のコラムより抜粋するかたちになります。
またこの構想以前にも都心乗り入れ計画はいろいろありましたが、これらについては省略といたします。亀戸線の存在と直通の話は結構有名ですし。
昭和の中頃、東武鉄道は運輸省にある新線計画を提供します。提出されたのは昭和30年、内容としては北千住~新橋に地下鉄新線を造る、というものでした。地下鉄新線、もちろんそれは営団とかの線路に乗りいれるのではなく、自社で線路を建設しようというものだったようです。
東武伊勢崎線、北千住駅を出て千住橋戸、南千住、三ノ輪、千束、寿町、蔵前、浅草橋、人形町、茅場町、八丁堀、銀座を経由し新橋駅へと至るルートだったようです。
途中駅は、三ノ輪、浅草、田原町、浅草橋、人形町、茅場町、築地の予定だったそう。
推定ですがルートをマッピングしてみました。
最初は南千住まで常磐線や日比谷線と同じように並走…または、その西側を走り、三ノ輪付近で浅草方面(現在のつくばエクスプレスのルート)へ、田原町から蔵前、都営浅草線に沿うルートとなったあと現在の東日本橋駅付近から人形町付近を経由して茅場町に抜け、銀座、築地から汐留をかすめるようにして新橋、というかたちであったと推測されます。
一応大通りに沿うかたちとしましたが、この時期に大通りが完成していたかは不明です。これは推測なので、間違っている可能性は十分考えられるでしょう。
ルートとりでは北千住~三ノ輪のところ、人形町のところ、新橋のところが少しごちゃっとしており、この辺がどうなっていたか少し分かりませんでした。
用地買収のことは置いておいて、浅草、田原町、浅草橋あたりのどこかの駅を4線化できれば速達列車の運転も可能とみられ、東武伊勢崎線から山手線へとかなり素早くアクセスすることができたと考えられます。新橋乗り換えで都心を素早く通過するひとつの手段ともなりえたように思えます。

結局この新線計画は二転三転し、結局最終的には営団が地下鉄日比谷線を造って東武がそれに直通する、という実史に落ち着きます。ですがそれは自社路線ではなくあくまで「他社に乗り入れる」というかたち。しかも東急と営団がゴネたために早く開業することに対する莫大な代償として「18m車のみ、両数制限あり」という現代にまで波及する大きな大きな足枷を着けられることとなります(しかも後年になって「やっぱ20m車走らせられるわ~www」となったんだからもうね)。
これは妄想でしかありませんが、もし仮に日比谷線が20m車10両編成を乗り入れられる構造であれば、日比谷線直通をメイン輸送ルートとして、準急・急行の日比谷線直通などもっと便利になっていた可能性も考えられます。ですが、開業を早めたことでまだまだ電車の時代だったうち(=モータリゼーションがなかばだった頃)に開業させることができたとも捉えられることができ、どっちが正解だったのかはわからないです。
少し話が脱線しましたが、もしこの地下鉄新線計画が実現していたならば輸送力拡大のための工事も自由に行えたはずですし、何よりこの路線が秘めていた存在価値は大きなものになっていたのではないかと思います。それだけに、この新線が実現しなかったのは残念でたまらないですが、だからといって実現しなかったものを嘆くというのは野暮なことなのでしょうね。

今の時代ではもう都心直通新線など夢のまた夢みたいな話ですが、「東武鉄道のみで高速で山手線主要駅にアクセスする」というのは沿線住民である私の叶わぬちょっとした夢だったりします。いつかまた、都心に新線を造ろうと言い出す時代は来るのでしょうか(たぶん来ない)。
ちなみにこれは余談ですが、日比谷線直通が各駅停車であること、常磐線が交直車である関係で品川までしか乗り入れられないことのせいで、東武線内の急行駅から横浜方面に素早く抜けるには乗り換え2回しなければならないことや、乗り換え乗り換えで新宿に素早く行けないことも伊勢崎線(スカイツリーライン)の不便さを際立たせるのではないかなって思います。朝ラッシュ混雑率は他路線の上位連中ほどヤバくないらしいですが、それでも乗り換え多くて不便となるとどうしてもねぇ…
参考文献
『東武伊勢崎線、日光線 古地図さんぽ』2018年 フォト・パブリッシング(株)発行 メディアパル(株)発売 坂上正一著 p.43
その他、『東武鉄道百年史』にも記載があるようです。
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